武州荏原郡矢口村新田大明神と崇める奉るは、人皇56代清和天皇より、六葉八幡太郎義家の孫新田義重より七世の孫左中将源義貞朝臣の次男左兵衛佐義興(さひょうゑのすけよしおき)也。家兄越後守義顕(よしあき)金崎城没落の時自殺し給ひて後、三男武蔵守義宗を六歳の時より昇殿せさせ、義興は上野国にのこしおき給ふ其時は徳寿丸(とくじゅまる)とぞ申しける。 建武3年8月鎮守府将軍北畠中納言顕家(あきいえ)卿陸奥国より大軍をおこし12月鎌倉を攻られし時、義貞に志ある武蔵上野の兵ども義興を大将として三万余騎にて顕家卿とともに尊氏の長男義詮とたたかひ鎌倉をせめおとす。暦応元年正月顕家等と上洛し吉野へまいられしに先帝叡覧(えいらん)ありて、武将の器用(きよう)たり。義貞が家を可興人(おこすべきひと)なりとて、徳寿丸をあらため御前にて元服して新田左兵衛佐義興とぞめされける。
同年5月顕家泉州安倍野にて戦死の時、其弟顕信と八幡の城にこもり閏(うるう)7月2日義貞越前黒丸の城をせめ流矢にあたり逝去し給ひしかば、義興は東国へ下り年月を送り正平7年義兵をおこし家嫡(かちゃく)左少将義宗・脇屋義助の子義治とともに武蔵野小手指原にて尊氏十万余騎の勢(せい)と合戦し御方敗走しければ、わづか三百余騎にて東をさして退給ふ。
義興冑(かぶと)のしころ袖の三の板きり落されて、小手の余すねあてはづれに、うす手三所おはれけり。義宗は笛吹峠へ打こえ給ふ。義興・義治は基氏を窺(うかが)はんとて鎌倉の方へ忍びゆきけるに、兼て新田方へ内通しける石堂入道三浦介が六千余騎と関戸にて行逢(あい)たりしかば、其士卒をひきゐ神奈川より鎌倉へ攻入、鶴岡の上より大御堂をさしてせめ下る。
谷々合戦たけなはなる時、義興は浜おもての在家のはづれにて敵三騎切ておとし大勢の中をかけぬけたれば、小手の手おおい切ながさるる太刀にて手網のまかりを寸斗(ばかり)きりて弓手の片手網地にさがり馬の足に踏れけるを、太刀をば左の脇にはさみ鎧のはなに落さがり左右の手網を取合て結ばれけるを、敵三騎よきひまかなと馳よりて冑(かぶと)の鉢とあげまきつれとを三打四打したたかに切けれども、義興すこしもさわかずしづかに手網をむすびて鞍坪(くらつぼ)になおり給へば、三騎の敵はつと馬をかけのけてあはれ大剛の武者かなと高声に感じて御方の勢にぞはせ帰る。其後基氏は南遠江守と石浜をさして落ちられけり。
新田左兵衛佐・脇屋左衛門佐は鎌倉の軍に打勝て会稽(かいけい)の恥を雪(すす)め両大将と仰がれて暫(しばらく)、東八ヶ国の成敗(せいぱい)をつかさどられける。
笛吹峠にて義宗尊氏合戦し義宗打負て、越後へ赴く。尊氏鎌倉を攻破り義興義治退治ひて、河村の城にこもり給ふ。
後光厳院の文和3年の春、河村の城を落たまへば、尊氏は都へ帰り、基氏鎌倉に入、畠山国清入道道誓を家老として関東をまもらしめけり。義興いとけなき時より武勇人にこゑ智謀類なし、大敵をやぶり鋭陣をとりひしぐ事孫呉(そんご)にもはぢず。されども時いたらざれば只三二人武蔵上野の間にかくれおはします。
宇都宮清の党三百余騎にてとりかこみたれどもうたれず、我朝の飛将軍なりとて京鎌倉にもやすき心はなかりけり。
其後義興は武蔵の少将義宗・脇屋右衛門佐義治と越後国に城郭をかまへ、半国ばかりうちしたがへておはしけり。
武蔵上野の義貞に忠ありし人人畠山入道に恨をふくむ兵、連署の誓詞をもって無二の志にて忠節を存するの間、御三人の中一人東国へ忍びて御越あらば大将にあふぎ奉り、義兵を挙べきよしを申入けり。義宗・義治は此比(このごろ)の人の心たのまれずとあゑて許容(きょよう)もなし。義興は元来勇者にて、とかくのかえりみもなく郎等百余人行つれたる旅人の旅人の形にて、ひそかに武州へぞ赴給ふ。
東八ヶ国の内義興へ志を通ずる者あまた出来ければ龍の水を得る心地して時を得てぞおはします。
此事誰ともなくひそかに鎌倉の管領足利左馬頭基氏(くわんりょうあしかがさまのかみもとうじ)に執事畠山道誓伝聞ていねてもさめても心安からず、其ありかをたづねて大勢をさしつかはせば行衛しれず、五百騎三百騎の勢にて夜討にすれば圍をつゐやして、事ともせず。ちぢに変じ百にかわりて、殆人力の及所にあらず。
入道昼夜思慮をめぐらし或夜竊(ひそか)に竹沢右京亮(うきょうのすけ)を呼よせて、わとのは先年武蔵野の合戦に義興に属して忠あり、其よしみある事なればいつはりて討事たなこころ内に有り。しからば恩賞はのぞみにまかすべしと、語りければ不義無道の匪(ひ)人にてとかくの事にも及ず、さあらば御内の制法をそむき本国へにげ下り兵衛佐殿の疑なき様にして取より申べしとて、我宿所へ帰り、ここかしこの傾城(けいせい)数十人めしあつめ昼夜酒宴遊興し或は傍輩余多(ほうばいあまた)まねきよせ十余日博奕してあそびたわぶる。
或人此よしを告ければ畠山聞ていつはりいかりて竹沢が所帯を没収して追出しけり。
竹沢本国へかゑり、ひそかに人をもって兵衛佐殿へ申けるは、父にて候入道元弘鎌倉の御合戦にも随分忠をぬきんでそれがしも又先年武蔵野御合戦に忠戦いたし候。
其後は御あかりをもしり奉らず身のおき所なきままに心ならず畠山にしよくして命を助かり候けるが、させる科もなきに一所懸命の領地を没収し、剰うつべきのよしにて候間基氏武蔵野の御陣を出はしり候近年それがしの不義を御免あらば幕下御奉公の身となり御大事には御命にかはのくいにすべしと、こまやかにぞ申入ける。
され共兵衛佐殿ふかく疑給いてたいめんもし給はず、心をゆるされざりければ、京都へひそかに人をつかはし、ある宮の御所より少将殿と申上﨟(じょうろう)女房の年二八ばかりに容顔類なく心さまゆうにやさしきを申下しおのれが養君にし奉り佐殿へぞ出しける。
義興偕老の思ひふかく同穴の契り浅からず漸心とけて、竹沢にま見へ給ふ。右京亮悦て鞍置たる馬三疋おどしたてたる鎧(よろい)三領めしかへにとて、まいらする。越後より御供の人々にも一献(こん)すすめ馬物の具小袖太刀かたなを引ければ、佐殿も御内の人々も竹沢に過たる御家人あるべからずと悦あひけり。
かくのごどく半年ばかりも宮づかへのいたはりをつみしかば、今は御心もおき給はずいかなる密事をもしらせ給ふ。
9月十三夜月いとくまなく晴わたりたる夕つかた竹沢まいりて申けるは、今宵は名にあふ月にて候へば我館へ御入候て草深き蓮生の宿の月をも御覧ぜられ候へかし御内の人々をも御慰申さんため白拍子どもめしよせて候と申して、我館の傍 かたわらには窮境(きゅうきょう)の一族若党三百余人かくしおく。
佐殿すでにうち出んとし給ひける所へ、少将の御つぼねのもとより御せうそこあり。過し夜御ことのうへにあしきさまなる夢を見侍る夢うらなふ人に問せて候へばおもき御つつしみなり七日の内には門外へ御出有べからずとぞ申されける。
佐殿執事井弾正をめして、如何と問い給えば、凶事を聞てつつしまざる事候べき今夜の御遊をばやめらるべしとぞ。俄に風の心地ありとて、竹沢をかへされけり。右京やすからず思召て、いかさま是は少将のつぼね我くわだてを内々すいして告られたりとおぼへたりこの女性をいけて置てはかなふまじとて、明る夜ひそかにつぼねをかどへ呼び出しさしころし、堀の中へぞしづめける。
竹沢つくづくと思案し、我力にては討奉る事なるまじきとおもひ、畠山が方へ使をもって佐殿の御在所はよく存候へ共、小勢にてはうちもらし候べし急ぎ一族にて候江戸遠江守同下野守をさしこされ候はば共に評定して討奉らむとぞ申ける。
入道大きに悦びて、遠江守と其甥下野守をぞつかはしける。其ままにては佐殿疑給ふべしと、姦謀(かんぼう)をめぐらし二人の所領稲毛の庄十二郷を闕所しければ、稲毛に城郭をかまへ一族以下兵五百余騎まねきあつめて、入道にむかいて一矢射て討死せんとぞ、ののしりける。程へて遠江守ひそかに竹沢をもって佐殿へ申入けるは、所領の地を畠山に没収せられ伯父甥牢落(らうらく)の身と成ぬるうへは、鎌倉殿御陣に向ひ入道に一矢射候べし。
佐殿を大将とあふぎ奉りて勢をつけ候べしと忍びて鎌倉へ御越候へ。当家の一族鎌倉中に二三千騎はこれ有べし其勢を以て相模国を打随へ東八ヶ国をなびけ天下をもくつがへす謀をめぐらし候はんこと、いとたやすげにこそ申入たりけれ。
兵衛佐殿も竹沢が執(とり)し申事なれば、たばかりて云ふとは思給はず、いとたのもしくおぼされて内々武蔵・上野・常陸・下総の間に御味方に志を通はす兵ともにふれつかはし、やがて出たたんとぞし給ひける。
延文3年10月10日の暁( あかつき) 兵衛佐殿忍びて先鎌倉へとぞ急れける。江戸・竹沢・矢口の渡の船底を二所ゑりぬきてのみをさし、渡の向ひの岸には前の宵より江戸遠江守同下野守三百余騎木陰(こかげ)岩間(いわま)に臥(ふし)かくれて余る所あらば打とどめむと用意す。此方の岸かげには竹沢究竟の射手百五十人遠矢に射ころさんとぞ、たくみける。忍びの御事なれば大勢の御供はいかがとて郎従どもをばかねてより、ぬけぬけに鎌倉へつかはしけり。
世良田右馬助・井弾正・大嶋周防守・土肥三郎左衛門・市河五郎・由良兵庫助・同新左衛門慰・南瀬口六郎・僅(わずかに)に十三人、のみをさしたる船にのり矢口の渡をおしいだす。もろこしの古へ漢水をわたりしためしもかくやと、しられてあわれなり。
抑(そもそも)この渡りと申は、おもて四町に余て浪みなぎりて底ふかし。船中流にいたりて渡守櫓(ろ)を取はづしたるやうにて河におとし、ふたつつみを一時にぬき二人の水手(かこ)は水に飛入て水底をくぐりてにげさりぬ。前後の両岸よりときをつくり、ゑびらをたたきて、たばかり申はしろしめさで、おろかなる人人のこのありさまを見よやとて、一度にどつとぞ笑ける。
水さらさらと湧入て腰の程に及ぶ時、井弾正・兵衛佐殿をいだき奉りさしあげければ、日本一の姦賊(かんぞく)無道人にたばかられけるこそむねんなれ。悪鬼となりて汝等がために怨をむくふべしと。大きに怒り腰のかたなをぬき左の脇より右のあばらぼねまで、かきめぐらし二刀まで切給ふ。井弾正は腸を引きりて河中へなげ入おのれが喉ぶゑ二所さし切て自らつかをつかみ首をうしろへおりつくる音二町ばかりぞ聞えける。
世良田右馬助・大嶋周防守は二人刀を柄(つか)口までさしちがゑて引組で河へ飛入。由良兵庫助・同新左衛門慰は船のともへに立あがり刀を逆手に取なをし、たがひにおのれが首を掻きおとす。土肥三郎左衛門・南瀬口六郎・市河五郎三人はおのおの袴の腰引ちぎり裸程になり、太刀を口にくわゑ河中へ飛入けるが、水底をくぐり向の岸へかけあがり敵三百騎の中へかけ入、半時ばかり切あひ敵五人打とり十三人に手おおせ同じ枕にうたれけり。
其後水練を入、大網をおろし佐殿十三人の首もとめ出し酒にひたし江戸・竹沢五百余騎にて武州入間河基氏の陣へぞはせまいる。畠山入道ななめならず悦て、小俣少輔次郎・松田河村をめしてみせければ疑もなく兵衛佐殿にておはします。
この三四年先数日相馴(なれ)奉りし事も申出し皆涙をながしければ心なきますらをも鎧の袖をぞぬらしける。江戸竹沢は忠功抜群なりとて恩賞数ヶ所給はりぬ。弓矢の面目かなと羨(ねた)む人もあり、又怯(よわ)き男のしわざかなとつまはじきしてにくむ人も多かり。竹沢はなをも謀叛(むほん)与党の者を尋ねむとて入間の陣とどめをく。
江戸二人は暇給り恩賞の地へぞ下されける。
二人喜悦の眉をひらき入間の陣を退出し10月23日の暮程に矢口の渡に着て渡里の船をぞまちゐたり。過にし十日のみをぬきたる水手二人江戸が恩賞給り下ると聞て、種々の酒肴を用意し、おのれも恩賞に預からんと、迎の船をぞ出しける。この船すでに河中を過る時天俄にかき曇り雨篠をたばねてふり、風波はげしく吹漲(ぶきみなぎり)て白浪船を漂(ただよわ)す。
渡守あはて騒で急ぎこぎもどさんと櫓をおして船をなをさんとしけるが、さかまく浪にうちかへされて水手梶取一人も残らず皆水底にぞ沈ける。天の怒ただ事にあらず。是はいかさま、義興の怨霊ならむと江戸遠江守大きにおそれおののきて川端より引返し二十余町川上の瀬へ馬をはやめて打けるに、電行先にひらめいて雷大きになりはためく。人家は遠し日は暮ぬ。只今雷神にけころされぬと思ひければ、御たすけ候へ兵衛佐殿と手をあわせ、虚空(こくう)を拝てにげたりける。
とある山の麓なる辻堂を目にかけて馬をあおりける所に、黒雲一むら江戸が頭の上に落さかり雷電耳の辺りに鳴ひらめきける。余りのおそろしさに、うしろをきつとかへり見たれば、新田左兵衛佐義興ひおどしの鎧に龍かしらの五枚かぶとの緒(お)をしめ白栗毛なる馬の額に角おいたるに乗り、あひの鞭(むち)をしとどうちて、江戸を弓手の物になし、鐙(あぶみ)のはなに落さかり、わたり七寸ばかりなるかりまたをもつて、かひかねより乳の下へかけずぶつと射洞さると思ひて江戸馬よりさかさまに落ちたりけるが、やがて血をはきもだゑたえ入りけるを輿にのせて江戸が門へ舁(かつぎ)つけたれば、七日が間足手をあがき水に溺(おぼれ)たるまねをして、あらたへがたや是たすけよとさけび死にぞ死にけり。
其翌の夜入間河には、畠山大夫入道か夢に黒雲の上に太鼓をうちて鯨波(げいは)の声聞ゆ。なに者のよせ来るやらんとあやしくて音する方を遥に見やりたれば、新田佐兵衛佐義興たけ二丈(じょう)ばかりの鬼になりて牛頭馬頭(こづめづ)異類異形の物十余人前後に随へ火の車を引て左馬頭のおはする陣中へ入るとおぼへて胸打騒で夢さめぬ。
入道夙(つと)におきて、かかるふしぎの夢を見たりと語りもおはらぬ間に。俄に雷火落かかり入間川の在家百余宇、堂舎仏閣数十ヶ所、一時の灰燼とぞなりにける。
其後畠山は康安元年11月諸士千余人道誓が罪悪をうたゑて其氏より畠山をせめられしかば、謀反して伊豆の修禅寺にこもりたりしが、関東にもたまりえず貞治3年ひそかに河内国へおもむき南朝へ降参せむと、楠を頼みたれども、許容なきにより遂に流浪して死たりける。
矢口の渡には夜な夜なひかり物出来て往来の人をなやます。野人村老あつまりて義興の亡霊を一社の神に祭り奉り墳墓をきづき、竹樹を植、新田大明神と名付祟(あがめ)奉る。されば其辺に立よる人は忽(たちまち)神の御たたりあれば、神職は申に及はず、里人も近かより侍らず、おそれつつしむ御やしろなり。実是(じつにこれ)後光厳院延文3年(1358年)戊戌10月初て祭り奉る。
後世又正月10日一年ふたたびの祭礼おこたらず。されば冤結(えんけつ)のたたりをなす事本朝の古へ延暦(えんりゃく)の早良(さわら)太子、延喜(えんぎ)の菅亟相(くわんしょうじょう)、そのためしすくなからず。もろこしにては鄭(てい)の良宵(りょうしょう)、斉の彭生(はうせい)、漢の灌夫(くわんふ)其類かぞふべからず。於乎(ああ)神は人の崇敬によりて威をまし人は至誠の感通をもって神の加護を添ふ。千載弓矢取人誰か是を敬せざらんや。誰かまた信奉せざらんや。